丙午の歳を迎えた。60年前の5月7日、母は私を産んでくれた。大原最後の産婆さん(ごとうすみえさん)の最後取り上げた赤ちゃんが私だった。不思議な事に縁は紡がれている。ごとうすみえさんは、東京の最先端の産婆学校を卒業した。その産婆学校にすみえさんを入学させて住まわせて学費等援助したのは、小林家本家の長男。彼は、東京に出て一旗揚げようと、コウモリ傘の骨に塗りを施す仕事で財を築いた石松爺さんのいとこ(小林???)だ。そのいとこの奥さんの妹がごとうすみえさん。石松爺さんのいとこは、すみえさんを東京に住まわせて大きな有名病院で産婆として働くことを望んでいた。しかし、すみえさんは、そうでは無かった。ふる里大原のために産婆として生涯生きることを望んだ。天使の如く大原に舞い戻って来たすみえさんは早速産婆として働き始める。そして記念すべき最初の産婆仕事は、私の父方、澤田のお祖母ちゃんの最初の赤子、父幸一の一番上の姉、台頭(だいと)のおばちゃんの出産だった。ごとうすみえさんは、大正8年(1919)〜昭和41年(1966)の長きにわたり川合村全ての赤子を取り上げてこの世に誕生させた。何人の赤子が誕生したのだろう?しかしその最初が私の父方祖母の最初の出産、その最後が私の母の最後の出産だっだ。さて、そのスーパー産婆ごとうすみえさんを誕生させた東京に居た本家長男夫婦は、大正12年9月1日に関東大震災で築いた家も財産も命も一瞬のうちに奪われた。
「お前を産んでほんまによかった。」母は、心底から言ってくれた。私が生まれた昭和41年(1966年)は、縄文産屋の風習がまだ色濃く残る丹波の山深い里でも出産は、近代医療の病院ですることが主流となっていた。そして、子供を沢山産む事に恥ずかしいという空気感があり、大体の家庭は二人兄弟だった。母は3人目私洋子を身籠り、世の中は、「丙午の女の子は、気が強く男を食い殺す」、「丙午の女は不幸になる」・・・とオールドメディア(TV、新聞、週刊誌・・・)で騒がれ、不安で悩み抜いた!と。しかし、翌年未年一月に出産予定日を迎える珠江ちゃんのお母さんが母に下記の言葉を言ってくれた事で心底安心したらしい。「うちの子は、未年やけど、お腹の中はまるまる丙午の一年間を過ごした子やで!ゴンベな(気の強い)子になるやろけど、同級生が大原におって嬉しいわ」と。また、「あんたの子は、半分以上巳年やんか!うちは、身ごもってから生まれるまでまるまる丙午や笑。」。当時、多くの女性は、3人目を病院で堕ろし、丙午生まれとなる子を病院で殺した。人の目を気にし、外側のスタンダードに乗るために。その圧力は、今以上に強かったのだろう。

満州事変、日中戦争、太平洋戦争と幼少期を過ごした母は、当時のことを鮮明に覚えている。大原分校同級生の珠江ちゃんのお母さんが生まれて間もない赤ちゃんだった頃、その父親は、太平洋戦争に出兵する事になり、大原神社の境内で出兵式が行われた。しかし、生まれたばかりの赤子をギューと抱きしめて頬擦りして涙を流し、何度も境内から「早く来い」と命令されても愛おしい我が子を抱きしめ続けるその姿が脳裏から離れない!赤い可愛いベベを着させてもらって父親に抱きしめられてニコニコ笑っとっちゃった!と当時を思い出す母の言葉に涙が流れる。その後、父親は帰らぬ人となった。見えない大勢の圧力は、明治、大正、昭和の戦後まで強く続いて来た。そこで抗った石松爺さんの話をここで伝えたい。赤紙(召集令状)が来れば、有無を言わせず、兵隊になって戦わなければならない時代。残った老若男女も思ったことも言えず、我慢を強いられ、大勢に忠実に従うことが美徳とされ、個を奪われた時代。産めよ増やせよ!男の子を沢山産むことが良しとされ、大原でも沢山の若者が兵隊に取られていった。石松爺さんは、赤紙が来た家を訪ね、その若者に涙流して言ったそうな。「どんなことしても生きて帰って来い。危ないと思ったら、逃げてでも絶対大原に帰ってくるんやぞ。約束や。指切りげんまんするんや!」と一軒一軒、若者に伝えたそう。いとこ達は、「そんな事したら、憲兵に見つかって監獄に入れられるから止めろ!」と言ったそうだが、「ワシ一人監獄に入るくらい大したことない。今、言わなあかん、伝えなあかんのや!ほんまのこっちゃ!嘘やない!ほんまのこと言わなあかん!」と。また、竹槍の練習をしている小学校の校庭で「飛行機から爆弾落としたら済む米兵が、のこのこ飛行機から降りて竹槍持ったお前らと戦う?そんな間抜けなこと本気で思うんか?!」と。必死で洗脳されている人たちに孤軍奮闘で伝えていた石松お爺さん。長いものに巻かれて、その場の安心を得ても、本当に大切なことが見えなくなってしまう。その怖さ恐ろしさを石松爺さんは感じていたのだろう。すごい時代にすごい爺さんだ。出口王仁三郎と親交があったのか???
太古の昔から沢山のご先祖様が生き抜いて下さったから、今日の私が居る。命を繋いでくれた先祖の思いの頂きに居る。しっかり生きねば!精一杯生きなきゃ!「世のため、人のために生きる」それが喜びに繋がる。生まれて60年目の丙午の年になってその意味を知る。「お前を産んでほんまに良かった」94になる母の言葉から、過去に生きたご先祖たちに思いを馳せ、全ての母に伝えたい。産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。見守ってくれてありがとう。感謝しかない。

